神戸は日本マラソン発祥地!

日本で初めて「マラソン」という名称を使ったのは、明治42年(1909)3月21日に神戸の湊川から大阪の西成大橋東端までの約32キロで実施された「マラソン大競走」だと言われています。

そのことについて、兵庫や神戸の歴史に造詣が深い田辺眞人先生(園田学園女子大学名誉教授・県立兵庫津ミュージアム名誉館長)の解説をご紹介します。

神戸は日本マラソン発祥地! - オリンピック、マラソンと阪神間地域 -

 近代オリンピックの父フランス人ピエール・ド・クーベルタンは若い日の英国留学時に、スポーツが教育に果たす役割に感銘を受けたという。当時の欧州(ヨーロッパ)は平和維持機関もなく、列強が激しく対立していた。そんな中、1870年にハインリヒ・シュリーマンがトロイの発掘を始め、エーゲ文明発見の報が広まると、教養人の間にギリシア文化ブームを巻き起こした。抗争を続ける都市国家(ポリス)が4年ごとのオリンピア祭の競技会には休戦をしてでも参加した史実が伝えられると、クーベルタンはスポーツとギリシア史を結合させて平和の祭典を実現しようと考えた。こうして彼は1896年に第1回近代オリンピック大会をギリシアのアテネで実現した。この時、やはりギリシア史を参考にして、BC490年のペルシア戦争でエーゲ海を横断して侵攻したペルシアの大軍に劣勢のアテネ軍が大勝し、マラトンの戦場から約40㌔を走って戦勝をアテネに知らせた使者の故事にちなんで、大会を象徴するマラソン競走が新設された。

発祥の地写真
日本最初のマラソンスタート地点:湊川公園、右は兵庫区役所

 近代オリンピックに日本が参加する3年前の明治42年(1909)に日本最初のマラソン競走が阪神間で行われた。同年2月19日主催者の大阪毎日新聞は1面中段に、競走参加者募集の大きな記事を掲載した。きたる春分の日に神戸大阪間で20哩(マイル)のマラソン競走を行うと予告し、その後の1カ月同紙は詳細を続報している。3月上旬までに408名が応募、書類審査で144名が受理された。3月13日、大阪公会堂の体格検査で128名が合格し、翌日の鳴尾関西競馬場の予選の結果20名の本選出場者が確定した。

発祥の地写真
日本マラソン発祥の地碑 神戸市役所

 当初のコースは神戸旧居留地脇の東遊園地から新淀川に新設された西成大橋東詰(づめ)までとされたが、後にスタート地点は湊川新開地の川池(かわいけ)東に変更された。そして3月21日11時半すぎにスタート。19名の走者が、新開地を南下して多聞通り、元町本通を経て旧居留地へ。磯上通、敏馬(みぬめ)神社前から江戸時代の浜街道に沿って大石・御影・芦屋を経て打出の東で旧西国街道に合流、西宮神社南をまわって、旧中国街道に入り、出屋敷で入った尼崎の街を巽(たつみ)橋で出て、大和田・稗島(姫島)で新淀川岸を左折、西成大橋まで走った。

発祥の地写真
辰巳八幡神社 尼崎の東南(たつみ=辰巳・巽)入り口の巽橋近く。今は巽橋は国道43号線にある。

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ゴールの西成大橋柱石 鼻川神社境内。新淀川が完成してマラソンの約半年前に竣工した西成大橋。
すぐ近くに今の国道2号の淀川大橋が後に建設された。

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当初の予定コースの東遊園地から 明治42年3月7日付『大阪毎日新聞』。3月13日にスタート地点が湊川埋立地に変更された。

 岡山から参加した27歳の在郷軍人金子長之助が2時間10分54秒で優勝。金メダルと賞金300円を獲得、5位までが賞金と金メダルを得ている。個人や企業からも賞品が提供された。約20哩(約32㌔)の距離で行われたが、オリンピックでも当時まだマラソンの距離が42.195kmに確定する前だったから、これは日本最初のマラソン大会と評価できる。そして、この行事が全国にマラソン競走を、さらにオリンピックを周知した意義は大きかった。

発祥の地写真
優勝した金子長之助 明治42年3月28日付『大阪毎日新聞』

 そして、このマラソンコース途中の御影こそ、日本のクーベルタンともいえる嘉納治五郎の生地である。桜田門外の変が起った万延元年(1860)に彼は摂津国莵原(うはら)郡御影村で酒造家嘉納一門の家に生まれた。父治郎作は幕末に勝海舟の砲台建設にも協力したが、明治になって東京で政府に出仕、治五郎も上京した。開成学校や二松学舎で英語や漢籍を学び、明治10年(1877)に東京帝大に入学した治五郎は一方、虚弱さを克服しようと柔術も学び、同12年に来日した前アメリカ大統領グラントのために渋沢栄一の別邸で柔術演技を披露している。彼は二年後の東大卒業の年に「柔道」を創始、翌年、下谷の永昌寺に講道館を開設して「精力善用 自他共栄」精神の近代的スポーツの一歩を踏み出した。

 その後、教育者として学習院教頭・第五高等中学(後の熊本大学)校長を経て、明治26年(1893)から23年間東京高等師範学校(後の東京教育大学)の校長を務めて日本の近代教育・学校体育の発展に貢献した。治五郎は、堪能な英語や漢学、欧州や中国の視察による広い識見で、女子高等教育や中国からの留学生も支援した。五高校長時代に部下の英語教師だったラフカディオ・ハーンなどを通じて、彼の存在は広く知られるようになっていく。


発祥の地写真
嘉納治五郎記念コーナー 御影公会堂地階

 明治42年(1909)彼はクーベルタンの勧めで東洋人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、日本の五輪参加をめざして大日本体育協会を設立、会長として3年後のストックホルム大会に参加、日本選手団長を務めた。さらに昭和11年(1936)のIOC総会で、4年後のオリンピック東京招致に成功したのである。

 その間、郷里では嘉納家や山邑(やまむら)家など灘の酒造家が計画した私立(旧制)中学校設立に協力。昭和2年(1927)に私立灘中学校(現、灘中学校・灘高等学校)が設立されると、その顧問となり弟子の眞田範衛を校長に推薦した。

 その後、治五郎は昭和13年カイロのIOC総会などに出席した後、帰国途中に氷川丸の船上で病死した。
 日本最初のマラソン競走は、奇しくも嘉納治五郎がIOC委員に就任した1909年に彼の生地を走りぬけて行われたのであった。


発祥の地写真
嘉納治五郎像 灘中学校・高等学校内

出典:『神戸かいわい 歴史を歩く』(田辺眞人著・公益財団法人 兵庫県予防医学協会編:神戸新聞総合出版センター)

掲載にあたりタイトル・数字表記を修正しています。


著者紹介

  • 田辺 眞人(たなべ まこと)

田辺さんの写真

園田学園女子大学名誉教授・県立兵庫津ミュージアム名誉館長
ラジオ関西『田辺眞人のラジオレクチャー』やNHKテレビ『新兵庫史を歩く』などに出演。

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